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 最終種目の鉄棒。着地を決めた瞬間、高々と腕を掲げた。採点はまだだったが、本人も会場も金メダルを確信するほどの完璧な演技だった。インタビューでは「笑ってこの試合を楽しめたのが良かった。メダルの色に関係なく記憶に残る演技をしようと思っていた」とコメントした。
 橋本選手は今も千葉県成田市にある実家で暮らしている。3人兄弟の末っ子で、生まれた時は4世代8人家族だった。高校教員の母祥子さん(54)は、幼い頃について「大輝は体が弱くて、ぜんそくがひどいと夜も寝られなかった。病院にはよくお世話になっていました」と振り返る。
 共働きの両親に代わって面倒を見たのが「じいちゃん、ばあちゃん」だった。曽祖母は既に高齢だったが、昼寝のお守りをしてくれた。祖父は農作業の合間を縫っては体操クラブへ送ってくれた。祖母の久子さん(82)は畑の野菜を使っては、朝な夕なにご飯を作ってくれた。家族は痩せっぽちの末っ子を気遣った。
 実家は農村地帯にあり、地縁や血縁のつながりが生きている。近所の人たちも、少子化時代には珍しい3人兄弟に目をかけてくれたという。地方公務員の父久一さんは「大輝がまだ免許を持っていない時には、車で近くの大学まで送ってくれる人もいた。周りのみんなに助けられました」と感謝の言葉を口にする。
 体操での「親代わり」は、地元「佐原ジュニア体操クラブ」(同県香取市)の山岸信行監督(65)が務めた。「運動神経はいいんだけど、『体操をやりたい、やりたい』って気持ちが先走りしちゃって、大会ではいつも空回りしていた」。クラブは廃校になった小学校の体育館を練習拠点にしていた。決して恵まれた環境とは言えなかったが、山岸監督は体操の基礎を教え込むことで、粗削りの才能に磨きをかけた。体も丈夫になり、中学の頃にはぜんそくも治まった。
 橋本選手は体操の名門・市立船橋高校に進学すると、才能を開花させた。五輪出場に当たっては、「多くの人に支えられて指導してもらった。その感謝を忘れずに五輪で結果を出して最強ニッポンを作り上げていきたいと思います」と話していた。一人のオリンピアンの誕生には、家族や地域の人たちの存在も欠かせなかった。
 橋本選手の実家では28日夜、両親と祖母の3人がテレビを見て応援した。亡くなった曽祖母と祖父の遺影も見守っていた。優勝が決まると、久一さんは「3種目目が終わって少し心配になりましたが、最後はやってくれました。本当にうれしい。帰ってきたら、おめでとうと言いたい」と歓喜した。【川崎桂吾】
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