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鉄道の旅を想う。 : 新・バイクで走ると気持ちがいい

川本三郎氏の「旅先でビール」を読んでから、鉄道でする旅がとても懐かしく思えてきて、昔撮った写真を探してしまった。私が一番鉄道で旅をしていたのは、小学生から高校生くらいにかけてだった。社会人になるとバイクに乗り始めて、どこに行くにもバイクということになり、車に乗り始めればそれでということになってしまった。ちょうど1970年代後半から1980年代がその頃だ。学校の休みになると時刻表を片手にプランニングをせっせと始めて、周遊券を上手く使ってというのがお決まりのパターン。宿に泊まるのはどこか怖いように思えて、夜行列車を乗り継いだりなんていうことをしていた。祖父母の家をキーにして、まるでかけ離れたところを訪ねるような事をやっていた。 周遊券といえば、急行列車の自由席乗り放題を思い出す。この制度のお陰で、出発は夜行急行の自由席というのが基本になる。そして、旅の途中でもワイド周遊券などのエリアの広いタイプのものは、その端から端まで上手く使って夜行急行の座席で一夜を明かすというのが基本的なスタイルだった。 今となっては、夜行列車というのはほぼ絶滅状態。周遊券も既に無い。急行列車というのも絶滅。急行がないのに、特別急行とはこれ如何に?と言いたくもなろうというものだ。 夜の上野駅は、いつも賑わっていたものだった。通勤時間帯を避けつつ、東北、上信越、北陸各地へと向かう夜行列車が数多く出発していく。東京駅から出る列車が比較的早い段階で特急に集約されていった中で、上野駅は対象的に特急も多かったけど負けずに急行列車もたくさん夜行列車で走っていた。そんな雰囲気も、どこか上野という駅の雰囲気に似合っているように思えたものだった。 (1980年1月14日の上野駅。地平ホームから発車を待つ急行津軽2号と特急北星。北星は盛岡までの寝台特急。この時は20系だった。EF58の電暖表示灯が点灯しているのはそのため。) 賑やかな行楽シーズンの混んだ列車も気分だけど、ガラガラの客車に一人ぽつんと揺られて、知らない町を夜通し走り続けていくというのも、捨て難いものだ。あのうら寂しいような、心細い感じは今ではなかなか味わえるものではない。 (1980年12月2日の信越線の各駅停車。EF62が牽引する高崎行きだった。これは夜行ではない列車だった。) 我が家を遠く離れて、がたんがたんと揺さぶられる客車に一人ぽつんと乗って、知らない町を夜中に走り抜けていく。そんな旅の感傷的なところが思い出に残る。 この時には、中津川で降りて北恵那鉄道を訪ねたのだった。小さな地方私鉄だけど、趣があった。中津川は初めてだった。木曽福島や上松には行ったことがあったけど。始発が中津町駅で、そこから遠くないあたりで撮影をして、それから駅前にいたタクシーの運転手さんと話をしたら終点の付知まで、途中で電車を追いかけて撮影させてくれたりして、乗せてもらったことを思い出す。帰りは電車に乗って帰ってきたっけ。 (1978年3月28日上と同じ急行ちくまにて。松本駅に止まったときに車内から撮った一枚。この列車に合わせて駅員さんが改札を開けて待機している。こんな時間でも、鉄道は動き続けていることを感じさせられた。) 特別に裕福な家庭に育ったわけでもないから、こんなときでも予算はギリギリ。なるべくローコストで旅をするために、周遊券は必須だったわけだ。それでも、時には特急列車に乗ることもある。そんな時の何よりの楽しみが食堂車だった。結構食堂車は利用している。ときでサシ181、はくたかでサシ481、白山でサシ481、しらさぎでサシ581も利用できた。日本海でナシ20。社会人になってからでも新幹線も二階建ての食堂車は利用したし。などなど思い出は尽きない。 特急なら食堂車があるのが当り前だったのに、いつの間にか食堂車も姿を消してしまった。快走する特急の車窓を楽しみながらの食事は特別なものだった。予約制のフレンチも良いけど、かつての食堂車はフレンドリーにカレーライスが楽しめた。そう、まだ子供だったから、ビールを頼むなんて考えられなかった頃のことだ。 (1980年9月6日上野駅地平ホームで発車を待つひばりの食堂車は、既に臨戦態勢で準備中だった。)

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