消灯後の真っ暗になった部屋で、布団にくるまりながら自らに問いかけた。「自分はどうありたいのか。自分から柔道をとったら何が残るのか」
約2カ月間の休養中、自問自答を繰り返した末に決断を下す。所属していた会社を辞め、柔道界では異例の「フリー」の選手になるという選択だった。
日中の勤務がなくなり柔道に全精力を注げるものの、実質は無職。それでも収入や引退後の生活をなげうって、直感を信じた。東京五輪で金メダルを取るため、退路を断ったのだ。
原沢という柔道家は、「エリート」「天才」と評される選手たちとは異なる経過をたどってきた。その愚直さゆえにドン底も味わったし、その分強くもなった。30日の試合本番を前に、そんな人生の軌跡を紹介したい。【土江洋範、金子淳】
厳しくも温かな母子家庭
1992年、原沢は山口県下関市に生まれた。「他人と争うことを好まず、誰とでも穏やかに接する」。小学校時代の通信簿には、こう記されている。「人見知りで、外ではおとなしかった」。母親の敏江さん(59)は明かす。家の中では一つ下の妹や、四つ下の弟とけんかばかりしていた。「このエネルギーを良い方向に発散させるには……」。敏江さんは小学1年から原沢を道場に通わせた。
原沢一家は市営団地で暮らしていた。敏江さんは原沢が小学4年の時に離婚し、夫は家から出て行った。専業主婦だった敏江さんはグループホームでヘルパーとして働き始めたが、「心に余裕がない」ハードな毎日となった。
ある時、敏江さんはきょうだいげんかをしていた子どもたちに怒りが抑えられなくなり、洋服だんすの扉を蹴り破った。場の空気は一瞬で凍り付いた。だが、敏江さんの足がたんすから抜けなくなると、家じゅうが笑いに包まれた。原沢は、そんな厳しくも温かい家庭で育った。
無名の少年「柔道やめる」から急成長
「目的もなく大学に行かせる経済的な余裕はうちにはない」。原沢は高校2年の夏、担任との進路面談を終えた敏江さんから告げられた。柔道部は5、6人しか部員がいない平凡なクラブ。自身も無名の選手で、ぼんやりと大学進学を希望していた。「分かった。じゃあいいわ。就職したら柔道もやめる」。原沢は敏江さんに素っ気なく返事すると、警察官など地元の安定した就職先を考え始めた。
しかし、この時はまだ成長期の途中だった。原沢は高校入学時、身長170センチちょっと、階級は66キロ級だった。そんなひょろっとした少年が1日に5食をたいらげ、高校3年になると身長は約190センチに伸び、体重は100キロを超えた。「ダイヤの原石」としてスカウトしてくれた日本大学に進学すると、国内の主要大会で優勝するまでに成長した。
15年に大学を卒業し、日本中央競馬会(JRA)に就職した。下関の実家には、原沢から初任給で買った麦焼酎が送られてきた。手紙も入っておらず意図は分からなかったが、「百年の孤独」という銘柄だった。敏江さんは「私が孤独だからかな」と笑って振り返るが、息子の独立を実感させる贈り物を手に、胸がいっぱいになったという。
あだとなった「超人的」な練習量
大学4年の時の原沢久喜(右)と母敏江さん。日大柔道部の主将を務め、口数は少ないが背中で引っ張るリーダーだった=敏江さん提供
原沢の柔道家としてのすごさは、どこにあるのか。日大の金野潤監督(54)は「入学してきた時、技術は小学生レベルだったが……」と話し、こう続ける。「稽古(けいこ)の量は断トツ。一本も手を抜かず、同じことを何度も繰り返す。これは誰でもやるチャンスはあるが、誰にもできない。天才ではないが、コツコツやる能力は超人的だ」
圧倒的な練習量で培われたスタミナを武器に、原沢は16年リオ五輪を決勝まで勝ち進んだ。そこに立ちはだかったのが「絶対王者」のリネール(フランス)だった。世界選手権7連覇中で五輪の連覇も狙っていた相手に、原沢はまともに組ませてもらえなかった。「体を大きくして、外国人に負けないパワーをつける」。これが、東京五輪に向けての目標となった。
しかし、なぜか全く試合で勝てなくなったのだ。17年9月の世界選手権では、世界ランキング53位の格下相手に初戦負けを喫した。
「ずいぶん太ったみたいだけど、どうしたの?」。帰国直後の原沢と会った公認スポーツ栄養士の松本恵・日大教授(47)は、パンパンにむくんだ顔を見て、こう問いかけた。聞くと、練習ではすぐに息が上がり、階段を上るのもつらいという。肩甲骨のあたりをつまむと、体脂肪が増えていると感じた。松本教授のすすめで、原沢は医師に診てもらい、オーバートレーニング症候群と診断された。
当時の体重は130キロで、リオ五輪の時より5キロも増えていた。一見すると「体を大きく。もっとパワーを」という目標に沿っている。だが実態は、たんぱく質を取り過ぎて肝臓に負担がかかり、筋肉を作る機能は下がっていた。それに加え、肝機能が低下して疲れが抜けにくくなっていたところに、自慢の練習量があだとなった。この悪循環によって症候群は引き起こされたが、原沢は「いい練習を積めている」と疲れをプラスに捉えていたのだった。
「安定志向」捨て再スタート
原沢は休養を命じられ、練習ができなくなった。松本教授は食事指導をしながら励ましたものの、元々無口な原沢はさらにどんよりしていた。「体調は戻るのか」「東京五輪に間に合うのか」――。ぽつりぽつりと漏らす姿には、焦りがにじんでいたという。
先述した通り、原沢はこの時に所属先のJRAを辞める決断をした。もともとJRAを就職先に選んだ理由は、引退した後も会社に残って働き続けられるという条件があったからだ。「柔道をやめてからの人生の方が長い」と考えていた。だが、日中は会社で仕事をしなくてはならず、練習時間を確保できないというデメリットもあった。
「安定した生活が保障されているのは、逃げ道があるということだ。柔道一本でやっていきたい」。原沢は安定志向を捨て去った。
この月の終わりにJRAを退社する時、なぜか人事部の担当者から辞令を手渡された。「世界一の柔道家を命ずる」。去って行く人間を応援してくれる古巣への感謝の思いを胸に、原沢は柔道人生の再スタートを切った。
武者修行で見つめ直した「原点」
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